jeudi 8 mars 2012

ステファン・エッセルさんによる生と死


VIVEZ !
Stéphane Hessel (1917-)


昨日は一日曇りで、夕方から雨
そのままかと思いきや、途中から晴れ上がり、満月が顔を出す
穏やかな夜となった


昨日話題にしたステファン・エッセルさんの本を摘まんでみる

エッセルさんは、エッセイストで翻訳家の父フランツさんと芸術家の母ヘレンさんの間にベルリンで生れている
彼が7歳の時、家族でパリに移住
20歳でフランスの国籍を取得
第2次大戦中、捕虜の身から逃れ、ロンドンのド・ゴールの元に馳せ参じる
1944年7月、パリでのミッションでゲシュタポに捕まり、拷問を受けた後ブーヘンヴァルト強制収容所へ送られる
チフスで亡くなったフランス人の身分証明書で、絞首刑を免れる
逃亡を試みた後、ミッテルバウ・ドーラ強制収容所へ移送
1945年4月、列車から脱出に成功
5月のパリに辿り着き、家族と再会を果たす

戦後は外交官として活躍
1948年、シャイヨ宮で行われた国際連合総会で採択された世界人権宣言の執筆に関わる
Déclaration universelle des droits de l'homme
仮訳文
終始、人権を擁護する立場を貫く


エッセルさんは無神論者で、彼の辞書には神という言葉はない
自分に指示を出し、熱狂を齎らす存在は必要ないという
そもそも enthousiasme という言葉には、神が埋め込められている
en (中に)+theos (神)、すなわち神に入り込まれる、神に霊感を得ることを意味している
唯一神に基づくものを受け入れることができるのか、とエッセルさんは問う

死に対して恐れは抱かない
それがどういうものか興味津々の様子だ
考え、表現できない植物状態では生きたくない
そうなる前に死にたいという
93歳(インタビュー時)まで生きると、それ以上生きる必要はない
そして、こんな考えをお持ちのようだ

死後の世界、天国や地獄のイメージは湧かない
煉獄(le purgatoire)には興味はあるが、信じない
人間の「存在」は、この世にある以前から始まり、死後も続く
その「存在」は、われわれの生もその前後をも含んでいる
眠りから覚めてこの世界にあり、再び眠りについてこの世界から消える
しかし、この生を包み込んでいる眠りこそ、「存在」そのものである
さらに言えば、その「存在」こそ、宇宙、人類、自然の全体を包み込んでいるのである


年を取ってから自らの精神を耕すのに、若き日から続けている詩の暗誦が有効であるという
お好みの詩も載っている
例えば

アポリネール「ミラボー橋」(Le Pont Mirabeau)
フランソワ・ヴィヨン「絞首罪人のバラード」(La Balade des pendus)
ボードレール「ある聖母へ」(À une Madone)、「バルコニー」(Le Balcon)、「悲しみと彷徨」(Moesta et errabunda)
ランボー「ロマン」(Roman)


先日、記事の最後に 「内から湧き出てくる源泉があるのなら探しに出たいものだ」 と書いた
音のない世界に向かうエネルギー(2012-3-6)
そのことに関連するお話をインタビュアーのパトリスさんによる「あとがき」に見つける

パトリスさんは、自らにこう問い掛ける
エッセルさんは一体どこから enthousiasme、語源に従うと「内なる神」を引き出しているのだろうか

そして、このように考えを進める
無神論者だと自認しているので、それが宗教的信仰でないのは明らかだ
もっと微妙な哲学的レベルで、彼の内的生活は懐疑主義的な態度で満たされているのではないか
すべてが可能である
そこで、批判精神を用いて、何が真なのかを探らなければならない
実験で証明されなければ、信じる理由はどこにもない
エッセルさんは、そう考えているはずである


解釈し直すと、こうなるだろうか
「こと」 に当たる時、すべてが可能であるという態度で臨むこと
最初から決まったものがあるのではなく、何が真としてあるのかわからないという心の状態で待機していること
何かに身を任せてしまうのではなく、それは何なのかと確かめようとする心がそこにはある
enthousiasme を持てるかどうかは、懐疑の目と同時に批判精神を準備できるかどうかに掛っている
休止状態にあるかに見えるその時、実は緊張状態にあるのだ
常にこのような状態を維持できると、活力ある生を全うできるということだろうか



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