vendredi 30 décembre 2011

雨のルクセンブルグで言葉と 「もの」 を考える





昨日、パリ東駅からTGVでメス(Metz)へ。
そこからローカルでルクセンブルグに着いた。
約2時間半の旅。
気分転換にはやや短か過ぎる。





少し休んでからホテル周辺を散策。
到着時は曇りだったが、雨空に変わっていた。
天気予報など調べることなく来ていたことに気付く。

街並みはやや暗く、地味。
人々は親しみやすい。





コルシカ産のクレマンティンがおいしそうだったので果物屋さんの中へ。
女主人と天気のお話。

「今夜一杯こんな状態でしょうかねー?」
「そうでしょうね」
「明日は?」
「明日も」
「明後日は?」
「明後日も」
横にいた方が 「それに風が加わりますよ」
そして、二人で笑いながらこう付け加えた。
「これがルクセンブルグなの」


雨なのに、気分は晴れ上がっていた。






少し冷えてきたのでビストロで雨宿り。
英語でもドイツ語でもフランス語でもない、おそらくルクセンブルグ語が音楽のように聞こえる。
体を温めながら、TGVで始めた言葉と 「もの」 についての考えをさらに巡らせる。


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哲学とは何か。
この問はわたしにとっても永遠のテーマだ。
哲学は現実との違和感から始まる。
これがわたしの経験から生まれた一つの定義である。


それは言葉から始まったのではない。
最初に漠然とした存在そのものに関わる不安のようなものを全身が感じたのだ。
これから哲学をやりましょうと言って始めたのではない。
自らが感じている中身を考えざるを得なくなり、言葉が続いたのだ。


言葉から始めるのではなく、「もの」 との直接の接触に入るように仕向ける。
新らたに考える時に必要な姿勢だろう。
この現実には何一つとして同じものはない。
同じ人間でも常に揺れ動いている。


言葉は共通項だけを拾い上げ、この世界に溢れる差異をすべて捨象する。
恰も不変の世界にいるかのように安心させ、「もの」 そのものに迫ることを止めさせる。
そういう力が言葉にはあるのだ。


今、この目の前に広がる世界をそのものとして観る。
そこは、今までにはなかった 「もの」 で溢れ返っているはずだ。
そこで驚き、初めて言葉を探すのだ。
見つからなければ創り出さなければならない。
この営みを通してしか、新しいところには到達しないのかもしれない。


「もの・こと」 から始めて言葉へ。
ひょっとすると、これも哲学の本質を表しているのかもしれない。
つまり、生きることの本質を。


今の世、出来合いの言葉で溢れていないだろうか。
言葉が先に来て、その言葉に合わせて 「もの」 を観、動いていないか。
その逆でなければならないはずなのに。


もっともらしい言葉の前では立ち止まらなければならない。
それを感得させてくれるのが詩人や哲学者ではなかったか。
その姿をもっと見てみたいものである。


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こんなところで、再び雨の街に出た。







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