mercredi 28 décembre 2011

ライトモチーフの源流は



相変わらず、前ブログ 「A View from Paris」 の記事を少しずつ読み返しながらBloggerに移している。その過程で気付いたことがある。それは、わたしの核になっているフランスや哲学の領域に対する考えは、実は最初の半年か1年くらいの間にでき上がっていたのではないかというものだ。例えば、こちらに来てまだ半年にも満たない2008年1月20日に 「フランスの哲学は」 と題した記事があり、こんなことを書いている。わたしの中にある考えが的確に表現されているのに驚く。それ以後に書いたことは、実はこの変奏だったのではないか。

ところで、前期最後のクールで先生が学生一人ひとりに前期の印象を聞いていた。私のところに回ってきたので、次のようなことを話した。

「私にとってはなかなかフォローするのが難しいものであった。私はこれまで科学の領域にいたせいか、哲学が孤立してあるのではなく、科学の領域にどのような貢献ができるのか、そのヒントを探そうとしながら聞いていた。その中でアングロサクソンの文献にも接触し、フランスの哲学が明らかに違うことに気付いている。それは、フランスの哲学には功利主義的な (utilitariste) の要素を殆ど感じないということである。私の場合、あることのためにという考えが見え隠れするだけで急に底が浅いもののように感じられてくるところがある。その点フランス人の問題への迫り方は、そのもののだけのために考えているように見え、純粋で奥深いと思っている」

こう言ったところ、その教授は本当に満足そうに深々と頷いておられた。おそらく当っているのだろう。そしてそのことを誇りに思っているのではないかと感じた。「誇り」 という言葉など長い間私の辞書から消え失せていたが、思わずこの言葉が出てきた。これは私の数ヶ月の印象でしかないので間違っていれば訂正をお願いしたいのだが、アングロサクソンの場合には科学の中に実際に入って行って、その問題を哲学するところがある。そのため、今の私には近づきやすいところがあり、科学への直接的な貢献の可能性が高いように感じる。

これに対してフランスの場合は本当に底なしである。それが役に立つのかどうかなどということは一切考えず、言ってみればそこにある問題について何の制約もなしにとにかく考える。何を考えてもよいのである。そして、それをやっている人から滲み出るどっしりとした落ち着きはどうだろう。何のバックグランドもない場合、それをやってこなかった私のような場合、ついていくのは大変である。その苦しみを今まで味わっていたようにも感じる。と同時に、こういう姿勢を見るのは初めてなので非常に刺激的でもあるのだ。

この印象が専門家から見たフランスの哲学の特徴なのかどうかはわからない。しかし、それはどうでもいいと思っている。このような方向性で自分は 「こと」 を進めたいと考えているからだ。

また、これまでの蓄積を見直し観想することでより豊かなものが齎されるような予感がしている。ひょっとすると、ここにも inépuisable な泉があるのかもしれない。その水がおいしければ、体が動き出すことだって無きにしも非ずだ。






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