mardi 20 décembre 2011

今年の大きな出来事



今年も残り少なくなってきた。
自然に越し方を振り返る時間が増えてくる。
学業未だ緒につかず、というのがまず頭に浮かんでくる。
しかし、そこから離れると少し違った景色が見えてくる。
他を見たいというのが正直なところなのだろうが。


今年は近年明らかになりつつあったことが白日の下の晒された年でもある。それを突き詰めると、われわれの中に目の前に現れた 「こと」 をそのものとして見ない傾向があるということだろう。誤魔化してしまうのだ。その 「こと」 が大きくなればなるほどその傾向が顕著になることもわかってきた。「こと」 を構成しているものを実験科学の言葉で言えばデータとなる。真理に辿り着くための仮説や法則を得るために、科学者は観察しデータを集めて規則性を探す。この過程は帰納と言われる。帰納においてはすべてのデータを平等に扱い、その中の共通性を見出し、相互に矛盾することのない法則を探ることになる。また、ある仮説を検証するために実験・観察する過程は演繹と言われる。もし仮説に合わないデータが出た時には仮説の方を修正する。ところが、この当たり前のことが行われず、仮説がドグマに代わり、ドグマに合わないデータの方を恣意的に修正したり、取捨選択することが平然と罷り通っていることが見えてきた。つまり、論理的、科学的ではないのである。

その背後には、「こと」 そのものの中から取捨選択できる、あるいはしなければならないと考える人間が社会のどこかにいるということも示している。その頭の中はどのような構造になっているのだろうか。選民意識、今の言葉で言えば 「上から目線」 のようなものがそこにあるのだろうか。あるいは、その個人から出てきたというよりは、その個人の属する集団の考えに身を任せ、自ら考えることを止めてしまった結果なのだろうか。この場合、そもそも日本に個人はいないという鶴見俊輔さんの観察と同義になるのだが、、。このようなことをやっていると、最後まで 「こと」 そのものの姿を見ることができず、根本的な対策も出てこない。一時的に良かれと思っていても問題はいつまでもそこにあることになる。これを繰り返すことで収拾がつかなくなり、最後はわれわれが実質的な不利益を被ることになる。これらの経過を見て同時に気付くことは、批判精神の発露がほとんど見られないということだろうか。

このようなことがわたしにも感じ取られたことで、小さいながらも科学を外に向けて語り始めることを思い立ったのが今年の夏であった。ほんの一瞬のことだったが、ひょっとするとあの瞬間が今年の最も大きな事件だったかもしれない。それはまた、わたし自身が自らに驚く出来事でもあった。自分が驚くことこそ最も大切だと考えている身にとっては嬉しい出来事とも言える。そして、その驚きは今も消えていない。忘れてならないのは、この試みが事件になり得たのはそこに参加してみたいと思われる方がいたからである。この事実に向き合った時に生れた感情が、パリに向かう機内で湧いてきた rapprochement の気分と深いところで繋がったのではないか。そんな想いとともにいる師走の一日である。





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