samedi 10 décembre 2011

考える悦び、それは誤謬を認める精神から生まれる



久し振りのパリの週末。バルコンに出て、やっと晴れ上がってくれた空を行く飛行機雲をクリスマスソングを聴きながら味わう。昨夜は親戚に当たる現在ロンドンの大学院生と彼のフィアンセとともにカルチエラタンでディネとなった。フランス語の混じる怪しげな英語での話になったが、二人にはよく対応していただいた。専門がわたしと同じ哲学になり、わたしの1年先輩に当たるため参考になることも多かった。

話の中に、「考える悦び」 という言葉が出ていた。日本人は往々にして型に嵌った考え、あるいはある枠の中での微調整にしか過ぎない考えに陥りがちだが、そこではあまり悦びは感じられないのではないか、という流れの中だったように記憶している。ダイナミックに考えが動くようになるためには、枠に揺さぶりをかけるような視点が必要になるのかもしれない。それはわたしが考える哲学のひとつのやり方にも通じる。そして、知への愛の根にはエロス、すなわち体が伴っていなければならないはずである。


ところで、わたしの筆名と同じ偉大な人物の名前が昨日も出たのには驚いた。今回の日本滞在中、ある友人の口から出たのを聞いていたからである。その時、クラクフ旅行中に触れたこの方についての記事を思い出していた。

革命の闘士、聖パウロ Saint Paul, militant révolutionnaire (2009-4-26) 





午後から散策に出る。久し振りにル・モンドを手にカフェに入り、いくつか興味を引いた記事を読む。散策途中、予想を覆す小さなことが重なり、それで新しい一日が作られて行くのを感じる。もう5年も前になる最初のブログ、ハンモックの記事を思い出す。そこでブリュノ・クレマンさんは、誤解や誤謬こそが幸福、豊穣、活力を齎すもので、予想されること、退屈、反復、言い換えにしか導かない誠実さや賢明さを嘆かわしいものであると語っている。これは上で触れた 「考える悦び」 にも関連しそうである。

ブリュノ・クレマン 「誤解礼賛」  "A MALENTENDEUR, SALUT !" (2006-10-5)



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