mercredi 18 mai 2011

オペロン・シンポ2日目: やはり最後は哲学、文化に行き着くのか


大野乾 (すすむ)博士 (1928-2000)


今日も天気は最高だ。今回はあまり期待していないが、それでも何か出てこないかと思いながら2日目のシンポジウムへ。午前中の発表には特に反応するものはなし。そしてデジュネへ。そこで隣になった若者がワインを勧めてきたので話をすると予想外のものが飛び出してきた。

彼の専門はコンピュータ・サイエンスだが、生物学との関連で仕事をしている。MITでシステム生物学の学位を取った後、現在はポスドクとしてパスツール研究所にいる。わたしが科学の後に哲学をやっていることを知ると身を乗り出してきた。アメリカ人にしては珍しいと思ったが、フランスに来ていること自体がそういう興味を内に秘めているのだろう。大学院時代も幅広くものを見たいと思ったようで、いろいろな領域と接触している。大学院では5年を過ごしたが、それでも足りず本当はもう1年やりたかったという。こちらに来たのも、ものの見方をさらに広げたかったこととアメリカとフランスの違いを肌で感じたかったからだという。哲学や歴史をどのように科学の現場に取り込めばよいのか尋ねてきたので、ここでも書いているようなことをいくつか助言する。そして、彼が今興味を持っている一つに日本人研究者が出した仮説とその評価の問題があるという。しかし、その研究者の名前が出てこない。早速アイフォンで検索したようで、大野乾先生であることがわかった。大野先生はアメリカに長い方で、日本人には珍しく(と言うより、そこから抜け出ていたのかもしれない)いろいろな仮説を発表している存在感のある世界的研究者であった。

その他にもいろいろなことが話題になったが、アメリカとフランスの違いも出ていた。文化の違いに戸惑い、なかなかしっくりきていない様子が見て取れた。わたしの印象はブログで何度も書いている通り、アメリカの思考は功利主義的傾向が強く、目的に向かうために考えるのに対して、フランスのそれは枠組みがないところから考えるようなところがあると話すと、思わぬ反応が返ってきた。それは、大学院生の考え方に限るとした上で、全く逆の印象を持っているというもの。つまり、アメリカの学生の方が広くものを見る傾向があるのに対して、フランスの学生は興味の対象を絞って研究に向かっているという。一つの理由は、彼が博士課程に5年かけたようにアメリカでは時間的な縛りがきつくないのに対して、フランスの場合には3年と決まっているようなのでそうならざるを得ないこと。それからMITの場合にはテクノロジー優先だが、他領域との接触を勧めるところがあるのも大きな理由ではないかとのこと。フランスでは学生の指導者への依存度が強くなり、テーマの自由度も少ないと見ている。かなり特殊なMITをアメリカの代表とすることにも異論はあるだろうが、とのことだったが、、。もちろん、どのレベルを対象にするかによっても両国の特徴は違って見えてくるだろう。興味深い指摘であった。

今回もまず話してみることの大切さを感じる。ただ、このような会話は日本の学会ではなかなか成立しない。しかもこのような年齢の差を越えてであれば尚更である。日本では自分の考えを発表し、相手の考えと向き合うということを自然にやる訓練がされていないからだろう。こんな小さなことも社会の風通しの良さや生活の豊かさと関係してくるように見えるのだが、、。



Dr. Mary Lyon (1925- )


午後のセッションで今年は別の50年記念でもあることを知る。X染色体不活化の機構をイギリスのメアリー・ライアンさんが発表したのが50年前の1961年。そして、その2年前に大野乾先生がこの現象を観察しているのである。こういう何げない繋がりをみつけるだけで満足できるようになっている。現役時代には考えられないことである。




そして、夕方のこと。プログラムの途中に高等教育・研究大臣のヴァレリー・ペクレスさんの挨拶が入った。公務の都合になるのだろうか。挨拶の前にフランソワ・ジャコブさんがゆっくりとした足取りで会場に入ってきた。フランスの大臣の話を聞くのは今回で三度目になる。最初は、生命倫理の会での保健省大臣のロズリン・バシュロー・ナルカンさん。それから世界哲学デーで聞いた国民教育相のリュック・シャテルさん。いずれのお話も感心して聞いていたが、今回も例外ではなかった。

生命倫理とフランス語で暮れる (2010-03-29)
「世界哲学デー」 を発見 (2010-11-18)

ペクレスさんはこちらに来た当時、アメリカ化とも言えるような大学改革を推し進めていて、テレビで見かけたことがある。弁が立ち、押し出しもよく、大学にとっても手強い相手だろうという印象を持った記憶があるが、それ以来だ。4年前の印象では小柄な方かと思っていたが、長身で颯爽としているのに驚く。本当に押し出しがよい。会場の空気が引き締まる。

フランス語で語り始めた冒頭からフランスの医学・生物学の哲学者ジョルジュ・カンギレム(1904-1995)の引用が入り、少し驚く。暫くの間彼の生物学の哲学について語り、オペロン・モデルの発表は単に分子生物学の幕を開けただけではなく、われわれの生命に対する考え方を変えた哲学的な革命であり、人類の思想史に深い刻印を残すものでもあったと続けた。さらにジャコブさんに向かい、あなたは自らの発見について深く明晰な省察をし、そこから哲学的、倫理的、政治的な意味を見出し指摘した真の哲学者であると称賛の言葉を贈っていた。

途中、フランスの大臣はフランス語で通すことになっているのですが、とほんの少しだけ冗談めかして語った後、英語でも続けていた。これからの課題として、遺伝、遺伝子を超えた機構(エピジェネティックス)、脳すなわち思考、幹細胞、老化、統合生物学などを挙げ、同時に明晰な精神による幅広い思索が人類のために求められることを指摘していた。科学のリズムが変わってきている中、フランスの活力や世界における指導的立場を維持するために研究面での充実を図る決断を数ヶ月前にしたことなどを話してお話は終わった。

今回も日本の政治家からはなかなか出てこないようなお話を聞くことができた。これをどう見ればよいのだろうか。ペクレスさんも忙しい政治家なので、こなしている側面もあるだろう。そうだとしてもそれを支える人の教養の違いになるだけである。思索を刺激することのない当たり障りのない言葉が並べられるだけでは、それでなくても閉塞感が溢れていると言われる国内の空気は淀む一方だろう。正確な言葉、核心を刺激する言葉は世界を拓く力を持っているはずである。言葉ではない、と言ってやり過ごす道もある。しかし、結局のところ、まず言葉を磨くところから始めなければ未来は開けないのではないだろうか。挨拶を聞きながら、そんな自問自答を繰り返していた。

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lundi 23 mai 2011

最後の 「言葉を磨くところから始めよ」 というメッセージについて。
これまで書くことにより、それまで見えなかったことが見えてくることを何度も経験している。これは言語哲学の領域になるのだろうが、存在が確実なものとしてアプリオリにあり、それについて後から言葉で名前を付けるという見方と名付けることによって初めて存在が生れるとする見方があるとすれば、後者の見方を支持しているように見える。つまり、今の段階では言葉で表現しなければ存在は見えてこないと考えているようである。その表現の仕方によっては、全く違う景色が現れてくることをも意味している。言葉によって現実を見ることは、実は創造性溢れる行為であったのだ。そのことを意識しながらこの場で観察を続けることの意味が想像以上に大きいものであることが見えてきた。




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